濡れたものが腕に張り付く感触で目が覚めた。ふわりとシャンプーの香りが漂う。
目を開けたら、独り暮らしのはずのワンルームに我が物顔で居座る友人を発見した。
「何、やってんの……」
というか、なぜ、ここにいるんだ。
「来たらヒラ爆睡してるし。風呂入ったら起きるかなーと思ったけど起きてないし」
そう言いながら侵入者はキーリングを指にはめてチャラチャラと音を鳴らした。
こいつに合鍵を持たせたのは失敗だった。あの時の自分をぶん殴ってでも思い留まらせるべきだった。今更後悔しても遅い。
「俺は疲れてんの。頼むから寝させて……。つーかフジ、何しに来たの」
「ん? 慰めてもらいに?」
「こっちこそ慰めて欲しいわ。徹夜でレジュメ作ってそのまま打ち合わせしてぶっつけで発表して休む間もなくバイト! グループのやつらは使えねぇし教授は相変わらずドエスな質問攻めしてくるし、バイトはお姉様方に雑用押し付けられまくってその間あいつら優雅にお茶して菓子食べてるし、先生は先生で夕方から一気に仕事投げやがるし! 明日は使えない新人が入るから死ぬ気で全部終わらせました! 以上、褒めろ! ちなみに前日はお前に付き合わされてたよな! したがって俺は疲れている!」
「うは! あったま良さげな言い方ぁ。嫌味ー」
フジは俺の愚痴をゲラゲラと暢気に笑い飛ばした。ベッドから落ちていた俺の腕に濡れた頭をグリグリ押し付けて。濡れた髪から水滴が落ちて腕を濡らす。
寝起きは悪い方じゃない。それでも寝起き早々に酔っ払いの相手は堪える。
「ちょっとお前頭拭け。そして水飲んでこい。アルコール入ってるだろ」
「んんんーやぁだ、俺、ドライヤー嫌い。うるさいし。あと掃除機も嫌い」
「あーはいはい、うるさいからな、知ってるっての」
「というわけで、ヒラが拭いてくれるの待ってるんだけど。人恋しくてアンニュイなキモチなわけ、俺」
肩に掛けたタオルを取ってこちらを向く。大人しく帰って俺を寝かせるという考えはこいつの頭には無いようだ。全く、ため息が出る。
「仕方ねぇな……。それで? また何かしたのか」
つくづく、俺はこいつに甘い。甘やかしたってどうにもならないのに。
「あ? 慰めてくれんの? 今日サービスいいねぇ」
まだ火照っている襟足からボディーソープとシャンプーがほのかに香る。石鹸とシトラス。
ゴシゴシと乱暴に拭いながら、とりあえずフジの愚痴を聞いてやることにした。スッキリしたら勝手に帰るだろう。
「えー、俺ことフジは、彼氏に振られました!」
「それだけか。ていうかいつものことだろ。毎月聞かされてる気がするんだけど」
動揺するのも毎月同じ。そろそろ慣れろよ、俺の心臓。
フジの首は細いけど、女の首じゃない。どうってことはない、こいつは男だ。たとえフジの恋愛対象が男でも。俺は違う。いや、違ったはず だ。
「毎月ってことはないだろー。一応、マジメに付き合ってんのよ? 自己分析ってやつしたんだけど、ほら、俺の長所って真面目なところだし?」
「どの口が言ってるんだか。お前、今更就職活動でもする気なの」
「いや、しないけど。するならお前と同じとこが良かったし」
「するな、来るな。やるなら変人歓迎のメーカーにでもいけ。今でもお前が進学するなんて、狂気の沙汰としか思えないけどな」
大学だけで勘弁しろ。この先も同じだなんて、耐えられるわけがない。いつか確実に道を踏み外すのが目に見えている。
「なんで、いいじゃん! 一緒に働こうぜぇ! VSモラルハザード! 保険って営業の男はイケメンが多いんだろ? 天国! 桃源郷! ニライカナイ!」
両手を広げて騒ぐフジの、変な語彙だけは豊富に詰まっている小さな頭を叩く。
「お前は存在自体がすでにモラルハザード。インモラルもいいとこだろ。会社は男漁りするところじゃねぇの」
「失礼な! 俺はきちんとお付き合いさせて頂いてますから。相手が悪いんですぅ」
むくれるな、頬を膨らますな、それでも成人男性かお前は。
「そういう奴と付き合うお前が悪いんだろ。見る目がないってやつ。……はい、終わり! あとは自然に乾くだろ」
肩を叩いて終わりを告げる。猫みたいに体を反らして伸びをしたフジの背中は、男にしては細いが、とても奇麗なラインを描く。
思わず、この背中を愛でながらバックからヤった奴は多いんだろうな、なんて感想が浮かんでしまった。勿論、直ぐに取り消したが。
「ヒラがゲイならなぁ。試してみる? 俺」
結構イイかもよ? なんて嘯いて、タバコをふかしながらニヤリと笑う。性悪そうなその顔に一体何人の男が騙されたのだろう。
「……んなこと言ってると鍵取り上げるからな」
「んー……お前に無事彼女ができたらな」
合鍵はフジの手に収まったまま。取り返す日は来ないのかもしれない。
***
大抵の愛煙家なら言われたことがあるだろう。
「健康に悪いわよ」
「タバコなんて臭いじゃない」
「鼻、おかしいんじゃないの?」
誠に残念ながら、俺の鼻はいい。それはもう、そんな匂いなどキャッチしてくれなくても、と思うほどには。
そして、殆ど毎日一緒に過ごしている友人、フジの振りまく香りは日によって違う。
ベースは香水。シトラスベースの一見爽やかな、けれど遊んでる男特有の香り。やつは数時間ごとに香水をつけ直すし、髪もいつだって整えている。まるで女子だ。
その次に煙草、それも甘ったるいキャスターの匂い。バニラフレーバーだと。甘党のくせに煙草なんて吸うんじゃねぇよ。
……最後に、その日に遊んだ男の移り香。最悪だ。
「ヒラー、ヒラさぁーん、聞いてんのー?」
「今日も今日とて騒がしいな、お前は。で、何なのよ。ここ最近俺んちに居座りっぱなしだろ。何のあてつけですか。俺は女も連れこめやしねぇんだけど」
俺の家に住んでいるかのように、フジは毎日うちへ帰って来る 。この前、男と別れたと聞いてからずっとだ。理性を保つためにも、ここは苦情を申し立てておかねばなるまい。
「ヒラに女連れこむ度胸も甲斐性もないだろ。このヘタレめ」
人に暴言を吐きながら爆笑するフジに、ムッとした顔を作った。
髪の毛ほど匂いの付きやすいものはない。頭を振ってケラケラ笑っているフジから、ふんわりと今日の香りが漂った。
作ったはずの表情は、そのまま感情丸出しに変わった。
「どうせ次の男がつかまらないとかだろ……。どうでもいいけど、泊まるならシャワー浴びてこい」
“付き合う”男がいないだけで遊ぶ男はいるってんだから手に負えない。今日の臭いはマルボロ。先週末はマイセンだった。
ため息が出る。何を思ってのため息なのかは深く考えたくない。
「はいはい、覗いちゃいやよぉん」
「ざけんな、誰が男の裸なんて覗くかよ」
ふざけることだけは忘れずに、フジは狭苦しい風呂場へと消えていった。
覗きなんてしたらオワリだ。必死で見ないようにしていた現実を直視して、その上友情も粉々に壊れる。大失恋と親友を失うのが同時だなんて笑うしかない。
俺はフジが恋人と別れる度にあいつを慰めていたわけだけど、俺を慰めるのは誰だ。ゼミの女か、就職先の女か。冗談じゃない。あいつらは狩人だ。将来の安定をもたらす男を見定めて、撃ち落とす。
俺が本当に欲しいのはそんな妥協と安定した未来じゃなく、今、壁を隔てた向こうで呑気にシャワーを浴びているあの男だ。ただし、俺はゲイじゃない。それは確かだ。……今現在、欲情するのがあのふざけた遊び人なだけで。
悶々とした後は修行僧のように無心に努めるのみだ。覗きたくても覗けるわけがない。見た目とは裏腹な俺のヘタレっぷりはフジの折り紙つきだ。
「なぁに難しい顔してんの。ウケるんだけど」
心頭滅却すれば火もまた涼し、だ。煩悩を捨て去れば、やけに艶っぽい風呂上がりのフジといえど、恐れることはない。
「いい加減、髪くらいきちんと拭け。それができないならその長ったらしい前髪、何とかしたらどうだよ」
「ヒラがいるじゃん! 自分でやるとかめんどくせーし」
やって、と言わんばかりに上目づかいでタオルを差し出してきた。熱いシャワーで火照った顔、頬も目尻も朱に染まっている。
その顔でオネダリされて断れるわけがなかった。俺はきっと聖職には就けない。
先ほどとは違う匂いが鼻をくすぐる。俺の心は狭い。そして、単純だ。フジが外の臭いを落とした、たったそれだけの事で、心のモヤモヤが晴れてしまうくらいには。
「そこに直れ、俺様が乾かしてしんぜよう」
「きゃー! ヒラくんさっすがー!」
ノリノリで俺の前にちょこんと体育座りした、体はぺらっぺらのくせに背丈だけはある男の頭を拭う。タオルでざっと乾かして手櫛で整えてやって、それからドライヤー。
サラサラの髪を梳くこの特権は俺だけのモノであって欲しい。間違いなく俺だけのモノで無いと知りながら、そんな事を思った。
ぼそぼそとフジが小さく呟いたようだったが、ドライヤーの轟音にかき消されてしまった。一旦ドライヤーを止め、何か言ったかと訊き返した。
いつもハイテンションなこいつが静かに話すことはまれだ。こういう時は真面目に聞いてやらないと、フジは機嫌を損ねて人をおちょくった返事しかしなくなる。手間は掛かるし、性格は厄介。面倒な奴だ。
一呼吸おいて、フジがこちらを振り返った。その顔に浮かべているのは、性悪そうでやけにエロイ、いつもの笑顔。
「なぁ……、勃っちゃった」
……あぁ、全く。本当に、面倒な奴だ。
Continued.