そのまま顔を近づけられ、気が付けばキスをしていた。それも、思いっきり濃いモノを。
臆病な俺は、知らない世界になんか手を出さない。そのハズだった。なのに、眼前に迫ったフジの顔、唇、舌。それを感じたときにはもう手遅れだった。
湿度の高い夏の夜。ただじっとしているだけでもジワジワと汗ばむこの季節。肌を重ねるとすぐに汗だくになってしまった。汗だけではなく、互いの体液もドロドロ。
鈍った感覚でも、ベタベタと張りつく髪と肌に吸いつく手のひら、フジの漏らす吐息だけは鮮明に感じ取れた。
ただ互いの手で擦って熱を放出し合ったダケ。だが、フジが触れていると思うだけでソコの熱は増したし、間近で見る気持ち良さそうなフジの顔や、今まで聞いた事のない、低く艶めいた短い喘ぎは呆れるほどに俺を煽った。
つまり、今までで一番、よかった。
フジが俺の家に帰って来るのはいつもの事だったが、あの日からドライヤーとセットで行為までもが組み込まれてしまった。まるでサルだ。
ただ、あいつから日替わりの移り香が消えた。それに後ろめたいような喜びを感じている。そして、香水も煙草の匂いも身に纏っていない、フジ自身の匂いも知った。
コレを知っているのは俺だけじゃない。俺はその他大勢の一人だ。フジが何を思って誘ったのかは知らないが、きっとただ単に溜まってたんだろう。それか、暑さで頭がやられてたか、どっちかだ。
気負いなく側に居られて、どんな相手といるよりも楽。そんな相手を失うのが怖かったのは俺だけで、フジはそんなことお構いなしだ。自分の快楽に忠実、我が儘で手のかかる面倒な奴。
「なぁ、ヒラ、気持ち良かったろ?」
「……分かってて聞いてるだろ」
「まぁ、そりゃあね。俺のテクニックを持ってすれば気持ち良くないワケ、無いんだけど」
ソレは自慢になることなのか? フフンと笑って、「どうだ、参ったか」とでも言いたげなフジの様子に苛立ちを抑えられない。無言で背を向け、手で追い払った。
「アレー? そんな態度取っちゃう? ひどくね?」
アフターサービス悪いと嫌われるぞぉ、なんて大きなお世話だ。背中を突かれて嫌々振り返ると、フジの口はニンマリと笑みを象っていた。
サービスが悪いのはお互い様だ。快感だけ追っかけた後はどっちも半裸で煙草を吸ってたんだから。
フジの右手が無造作に煙草を棄て、俺の肌を這い始めた。汗ばんだ肌と肌が吸いつく感覚。フジはこのクソ暑い中でも構わずに、ベタベタと引っ付いてくる。まるで、気の向く時にだけ甘える猫だ。
「あ? もしかしてもの足りなかった? 今度は入れる? それとも俺が入れてあげよっか?」
圧し掛かられて言われたのはそんなセリフ。羞恥のカケラも無く誘う様子に、嫉妬よりも呆れを覚えた。フジの辞書には“恥じらい”なんて可愛らしい言葉は載って無いに違いない。
フジとの行為は日に日に深いものになっている。初めはただ手を使っていただけだったのが、この間はいきなり押し倒されて咥えられた。熱い口内で舐めまわされて即行でイった俺に対し、フジは「うわ、はや……」なんて呟いたあと、早漏とまで言いやがった。
「冗談。そんなのゴメンだね」
「何事も経験だよ、ヒラ」
「んな経験いらねぇんだよ。俺は。おら、さっさと寝るぞ。明日、一限からだろ」
煙草の煙と共に言葉を吐いて、山になった吸殻を溢さないように気を付けながら灰皿に押しつけた。7割はフジのキャスターで、残りが俺のケント。
煙草を吸ってりゃため息がバレなくていいな、などと思う。
最後まで致してしまったらオワリだ。認めざるを得なくなる。無駄と知りつつ、フジにハマるのを恐れているのに。
我ながら、今更何を言ってるんだ、とは思う。だが、そう簡単に割り切れるものじゃない。そして認めてしまった先に待ち受けているのは恐らく、幸せとは程遠い絶望だ。齎されない確約に苦しむくらいなら、仲の良い友人のままが良かった。
諦めの悪いフジの手をパシンと叩き落とし、モゾモゾと寝る体勢を取った。フジが大人しくなったのを見計らって、腹の底から深呼吸の様に息を吐いた。
***
昼時、談話室でゼミの話し合いをしていた俺にフジが近寄って来た。
「何、ヒラ。浮気?」
「何言ってんだか。お前じゃあるまいし。俺はそんな不誠実なことしません」
「ふぅん。そんなこと言うんだ」
いつものフジなら、笑いながら「えー! ひっどぉい!」なんて返しそうなものなのに、冷たい表情でそれだけを言い捨てて行った。
こちらを睨むような、もの言いたげな目は何を訴えようとしているのか。単に次のゼミコンパの話をしていただけだし、そもそも俺とフジの関係にそんな言葉は当てはまらないだろう。
首を捻りつつもバイトを終えて帰宅した俺を、フジの冷たい顔が出迎えた。どっちが家主か分からないくらい、フジはうちへ入り浸っている。
「何、そんなとこで。てか、ただいま」
「……おかえり。俺、ちょっと怒ってんだけど」
そりゃあ、見たら分かる。ヘタに刺激したら斜め上の回答しか返って来なさそうなくらい、フジはピリピリした雰囲気を醸し出している。
さて、どうかわそうか、と思案している俺に、フジからの命令が下された。
「浮気はダメ、禁止。てか女と飲みに行くとか絶対ダメ」
「ナニそれ。んな恋人みたいな」
「はぁ? 違うっての? ヒラってそんないい加減なヤツだったんだ」
あまり変わらない目線で睨みつけられて、後ろめたい所なんか無いにも関わらず、なぜかギクリとしてしまった。冤罪で捕まった気分だ。
「……お前、俺のこと好きだったりするのか」
「今更ナニ言ってんの。さっさと気付けよ。この俺が! ヒラ一人に絞ってんだからさぁ」
返事は否定であって欲しいと思いながらも、もしかして、という疑惑をぶつける。しかし、返って来たのは冷たい否定でも冗談でもなかった。
「そんなんで分かるか! 俺はエスパーじゃねぇんだぞ!」
「や、そこは愛のチカラで気付いてよ」
はあぁ、とワザとらしいため息まで溢しながら、フジは「俺はマジメだって前から言ってんじゃん」と言い足す。
そういや言ってたな、と妙に冷静な頭の端に思い起こしたが、あれはどう考えたってふざけてたとしか思えない。
「……本気で言ってんの?」
「ふざけてるように見えんの?」
再確認の問いに対し、フジも問いで答える。いつものようにおちゃらけてるようには見えなかった。ということはつまり、フジなりに真面目に話しているんだろう。
「待て、勘弁しろ。俺はホモにはならん」
「なんで。いいじゃん。ヒラも俺が好き、俺もヒラが好き。ほら、簡単な公式じゃん」
聞き捨てならない単語が耳に届いた。直接言葉にされて、俺の平凡な将来像がグラグラと揺れ始めた。それでもそう簡単には認められない。自分の気持ちも、フジの気持ちも。
「俺はお前みたいに簡単で単純には出来てねぇんだよ。つーか、俺はお前を好きだとか言った覚えはない」
「やー、俺はヒラと違って愛のチカラで気付いちゃったカラ! ヒラってお堅いっていうかさぁ……意外に暗いよな。その上、ヘタレだし」
失礼な言だが、図星を突いていた。俺は明るくハッピーなポジティブ思考など持ち得ていないのだ。だからこそ、そんなフジに惹かれたと言ってもいい。
「享楽主義のお前と一緒にすんな」
「何、ヒラって禁欲主義だったの。さっさと襲っちゃえばいいのにさぁ。据え膳食わないって、お前それでも男?」
「世間体とか色々あんだろ。お前はまだ学生続けるらしいからいいケド、来年から社会人だぞ、俺」
据え膳は据え膳でも、ソレは毒入りだ。毒を毒と知ってて喰らうほど、俺は深い人間じゃない。
諦め悪く言い募った俺に対し、フジは「何だ、そんなことかぁ」と軽く切り捨てた。
「だいじょーぶ、大丈夫。何にも怖い事ないから! てかさぁ、他人の性癖やら恋人やら、果ては結婚やらまで気にするような時代はもう終わるって! 男性の未婚率は高いんだしさぁ。平気、平気。ヒラが気にし過ぎ」
目の前のフジはひらりと手のひらを振って、何て事無いように笑った。
「ちゃーんと好きだから、な?」
ダメ押しのひと言で、俺の中に築いていた防御壁の様な何かがガラガラと崩れ落ちていく。
あぁもう、分かった。俺の負けだ。最初から決着なんて着いてたようなものだけど、敢えて、「俺は今屈したのだ」、と自分を納得させた。
頭が痛いような素振りをして見せても、フジには“愛のチカラ”とかいう妙な勘で見抜かれてしまっているんだろう。
きっと、これから先もこいつに振り回されて、それはそれで何となく、もしかしたら幸せなのかもしれない。
End
「おい、浮気禁止はお前にも当てはまるからな。夜遊び禁止。他所の男の匂い付けて帰って来るなんて言語道断。“付き合う”ってのは片務契約じゃねぇ、双務契約だ。そのだらしない下半身に叩き込んどけよ」
将来的に浮気を詰る権利が発生しそうなのはフジじゃなく、むしろ俺の方だろう。なんなら契約書でも書かせたいくらいだ。
「ひ、ヒラさん? ちょっとキャラ違くね? 匂いとかナニ……犬かよ……」
「おら、分かったら返事だ」
「あー、はいはい。俺はマジメだって何回言えば分かるかなぁ」
「返事は一回!」
「了解致しましたー。……で、もうイイだろ? お預け、辛かったんだけど」
イロイロと限界なのも、フジじゃなくて俺の方。我ながら鋼鉄の理性だと思っていたのだが、それも粉々に砕けていたらしい。
下半身を密着させ、ワザとらしい下品さで口角を上げたフジの口をふさぎ、安物のパイプベッドへ引き摺り倒したのだった。
痩せ我慢なんてするものじゃない。二人してくたくたになって、広いとは言えないベッドでぐったりと伸びた。
「ひど……俺、久しぶりだったのに……」
枯れた声で責められても、罪悪感などない。というか、なかなかイイものだな。
柔らかそうな栗色の髪に鼻を寄せ、宥める様にあやす。いつもと同じ、煙草とシトラスの混じった匂いがした。
オマケでした!