――命の次に失ったのは、ケツの穴の処女でした……。
チュンチュンと囀る鳥の声に新しい朝の訪れを知る。ついでに、知りたくはなかった新しい世界も知ってしまった。
『好きやで、ゆきちゃん……』
『ずぅっと一緒にいたる』
『大事にしたるから』
気を失うように眠りに落ちたが、記憶は都合良く飛んでくれていなかった。松月の声も、手も、体温も、昨夜の一部始終を覚えている。
幽霊――ではなく、霞に遭遇した時と同じくらい、叫び声を上げたい気分だった。だが、たとえ大声を上げようとしても、擦れた情けない声しか出ないに違いない。なぜこんなに喉が痛むのかは余り思い出したくない。
嗚呼、死んでまでも災難続き。俺の不運は筋金入りだ。
現世の父さん、母さん、ごめんなさい。俺、もうお婿にいけない! ついでに、先に逝った親不孝もお許しください!
人生で一番デカイ災難は最期の最期に起こっていた。そう、このカミサマ、松月に気に入られていた事だったに違いない。
それにしても――カミサマの加護によるご利益とかは無いのかよ……。
「おはよぉ、ゆきちゃん」
満足です! なんて書いてある、艶々とした顔でこっちを見るな。
――あぁ、チクショウ……。
口惜しいが、認めないわけにはいかない。こいつに振り回されて、好きだと告げられて。優しく、優しく扱われて、俺はそれなりに幸せを感じている。
それでも、俺の常識はそれを素直に認める事は出来ない。相反する気持ちが拮抗し合って、俺の気分は最悪と言ってもいい。
なぜあのとき絆されてしまったんだ。あの笑顔がいけない。にっこり笑っているようで、あれは有無を言わさずに俺を流してしまう。
「あれ? お前、こんなに髪の色明るかったか?」
はたと気づく。
初めてまともに松月の姿を見たとき、その烏の濡れ羽色がとてもきれいだと思ったのを覚えている。
だが、俺の気持ちに反して爽やか過ぎる朝の光の下で見た松月の長髪は、昨夜よりもかなり明るい色彩をしていた。黒というよりもこれはもう、明るいヘーゼルの茶だ。
「あぁ、どないしよ。咲いてもうてるかも」
「は?」
「ちょっと我慢できひんくてな、開花してもうた」
「はぁ? お前、まだ三月半ばだぞ? ちょっと早い、つうか早すぎるだろ」
何処からともなく、桜の香りが漂ってくる。おそらく、松月からだ。
おいおい、桜のカミサマは瞳の色だけじゃなく、髪の色まで変わるのか。カミサマというものはなんとも不思議な存在だ。
「ゆきちゃんのせいやで? あんな、なぁ……可愛い顔しはって……」
ほうっ、とため息を一つ吐いて、うっとりとした表情を見せる。やけに色っぽく、艶めかしい。
はぁ……。
ウキウキで花まで咲かせてしまった松月を尻目に、俺は溜息を吐く。
それにしても浮かれ過ぎだろう。ナニがそんなに嬉しいんだ。いや、思い当たる事は一つしかないが、俺は嬉しくない。
それに、何が俺のせい、だよ。俺はお前のせいでケツが痛い。腰も痛い。体中の節々が痛い。魂の全身打撲の時のようにボロボロだ。
それもこれも、全部はこのカミサマのせい。
――もう二度と流されてなどやらぬ。
痛みを訴える腰を摩って固く決意する。特に、コレはもう無しだ。こんなこと二度とごめんだ。
未だ脳内に残っている気持ちのよさそうな己の声は記憶の混沌へと封じ込めてしまえ。そのまま消滅してくれたらいい。
「ゆきちゃん、好きやで……だから、な? もう観念しぃや?」
俺の決意を打ち崩すように笑う。
高貴な貴族の衣、御衣黄の君は、その麗しい名に恥じない、これまでで最高の幸せそうな笑顔を見せた。
完
オワリ! あと、本当は御衣黄って4月半ば以降の開花だよ……。