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桃色綿飴

▼03


「ちぃ、いい子にしてろよ」
千裕は大人だ。だから、働いている。
毎朝、彼は「行ってくる」と言い残して出かけてしまうが、その理由は千鳥にも分かっていた。
千鳥も留学を終えて大人になったら、ガーデンで仕事を探すつもりだった。白と黒の先輩のように強い魔法は扱えないため学院へは進まずに、自分の使えるだけの小さな幸せの魔法で、千鳥は何かできることを探そうと思っていたのだ。

(だけど……)
自分は出会ってしまった。“運命”に。千鳥の運命はガーデンではなく、この冷酷な世界にいるのだ。だが千裕さえいれば、千鳥はこの世界も大好きになれた。千裕の側にいれば、この世界だってガーデンに負けず、温かく優しい。だから、もうこの世界は怖くは無い。
けれど、こうも思う。
(チヒロは、猫の僕とは話せない)

千鳥にとって、それは少し残念なことだった。
千裕と同じ気持ちを感じたい。楽しい事も、嬉しい事も。悲しい事も苦しい事も。そして、この気持ちも、全てを千裕と分かち合いたかった。
千裕と、千鳥。名前が揃いであるように、感情も共有したいのだ。

そして、彼が千鳥に名前をくれたように、彼にも自分から何かを与えたかった。
では、何を? 小さな千鳥に何が出来るだろう。
(そうだ!)
自分にも魔法が使えるではないか。それも、『おいしいものをもっとおいしくする魔法』が。千鳥の使える魔法はそれだけだが、それでもきっと、千裕は喜んでくれるはずだ。
千裕はいつも、どこかうんざりした顔で他所から買って来た物を食べていた。それを千鳥に分けてくれることはないが、彼の表情から察するに、あまり美味しいものではないのだろう。
だから、たくさんの『好き』を込めて、千裕にご飯を作ってあげよう。千鳥に出来る小さな魔法。それが役に立つかもしれない。そして、千裕に幸せを味わってもらうのだ。
同じものを食べて、おいしいね、って。そう言って笑い合える。それはなんて良い考えだろう、なんて素敵なことなのだろう。
千鳥は自我自賛し、一人悦に入っていた。

しかし、そのためには一つ問題があった。ひと型をとらなくてはならない。教師や先輩の言葉が頭を過ぎる。
『安易にひと型になってはいけません』
『留学中は、いかなる時も気を抜いてはならぬぞ』
この世界のルールはまだよく分からなかった。けれど、ここは千裕の住まい。安心できる場所だ。それだけは確かに分かる。だから、きっと大丈夫。
頭に木霊する彼らの言葉など今はもう無意味だ。
(チヒロ、チヒロ。早く帰って来て)
そう思ってずっと待っていたが、その日、千裕は深夜になっても帰宅してはくれなかった。



line



待ち疲れて寝入ってしまった千鳥のミミが鍵の開く音を捉えたのは朝方のことだった。
ダルそうにジャケットを脱ぎ、ベッドへ倒れこんだ千裕からは違うひとの匂いがする。
(チヒロ……)
甘いだけだった彼の名前が、なぜか今はとても苦く感じた。
どうして今日はこんなに遅かったのか。どうして、違うひとの匂いがするのか。どうして、呼びかけても応えてくれないのか。
もしかしたら、千 裕はもうこの世界で、千裕と同じ世界で生きるひとの中から“運命”を見つけてしまったのかもしれない。自分ではない、『誰か』を。
悲しい想像に、千鳥の胸はシクシクと痛みを訴えた。
――ちぃ。
白み始めた朝の光の中で、千鳥は小さく鳴いた。涙は流れなかった。

どんなに痛くとも、苦くとも。千鳥はまだ泣いてはならなかった。千鳥はまだ千裕に伝えていないから。言葉じゃなくても通じるものだって確かにある。けれど、今の千鳥は小さな猫で、千裕はひとだ。千鳥の想いは千裕に届いていない。
自分よりも千裕の“運命”に相応しいひとがいる。そんなことはない。絶対に。誰よりも、どの世界で一番、千裕を好きなのは自分だ。それだけは胸を張って言える。
だからこのまま、他のひとに千裕を譲る事はできない。
(大好き。大好き。大好き)
寝顔に囁き続けても、起きている時に愛をぶつけても、千裕はそれには気付かない。
(チヒロ、チヒロ。早く起きて。目をさまして)
そして、千裕と同じ、ひとの姿の僕を見て。

でも――、と千鳥は思う。
(あまり、驚かないで欲しいなぁ)
拒絶されたら消えてなくなってしまうかもしれない。この気持ちはそれくらいに大きいから。小さな猫の姿では持て余してしまうくらいに、大きいから。
千鳥に泣く権利ができるのは、全てを告白したその後だ。幸せの涙か、悲しみの涙か。それは千鳥には見当も付かないが、“運命”が齎してくれるものならば何だって受け入れるつもりだった。

千裕の目覚めを待って、千鳥はベッドの脇に座り込んだ。触れた頬は温かく、棘の刺さった心にじんわりと染みた。


Continued.

 

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