柳に風。あぁ、いや、松月は文字通り桜だったが、そんな事はどうでもいい。
主張を軽く受け流され、俺は少々怒っていた。俺は怒りを覚えるよりも諦めが先に立つ性質だったのだ、生前の知人が見たら珍しいと驚いたに違いない。
他人との付き合いについては、一社会人としてそれなりのスキルを持っていたつもりだった。むしろ、かなり磨いてきたと思っていた。ストレスで胃に穴を開けはしたが、それでも円滑なオツキアイは出来ていたのだから。
距離を置いた関係や、互いの利害の絡んだ仕事上の付き合い。そんな関係ばかりだったから、今のように一人の相手とずっと一緒にいるという状況は俺を混乱させる。勝手がわからないのだ。
松月に振り回されているという自覚はあった。そして――認めたくはないのだが――それを本心から嫌がっているわけではないことも。
安心したり、怒ったり。俺の感情は今までになく忙しく動いている。生前よりも生き生きしていると言ってもいいかもしれない。
だから本当は、怒っているというよりも、そう――戸惑っているといった方が正しかった。
複雑な心境を持て余し、俺は庭を散歩 していた。
松月と顔を会わせたくない。広い屋敷の一室に籠っていてもよかったのだが、如何せんやる事が無さ過ぎた。引き籠っているよりも、外の空気を吸った方が気晴らしには良いだろう。
ドスドスと足音も荒く歩き回っている様は余り人に見せられたものではないが、ここには他に人がいない。どんな顔をしていても平気だろう。
そう思っていた矢先に、「お邪魔するよー」という、松月のものとは違った男性の声がした。
足もあるし、人の形をしているし、大丈夫。俺の苦手とするモノではないだろう。庭の生け垣から侵入してきた男の姿を確認し、僅かに安堵する。
やや茶色がかった黒髪に、松月と同じような和服姿。しかし、松月のしっとりとした雰囲気とは違い、華やかな空気を纏っている。
その派手な美形は俺の姿を認めるなり、出し抜けにこう宣った。
「あ、ラッキー! 早速ゆきちゃん発見! 君、松月の“ゆきちゃん”だろ?」
「松月の、だ?」
どうにも聞き捨てならないセリフに、落ち着いていたはずの今朝方の怒りが再燃する。何がラッキーだ、俺は不運だ。
「ん? 松月が嫌なら僕のでもいいよ? ゆきちゃんなら大歓迎」
「結構です。遠慮します。ですからお引き取り下さい」
会って早々に、人をゆきちゃん等と呼ぶ輩に良い予感はしない。松月がいい例だ。
相手をしても絶対に気疲れするだけ。生きている内なら兎も角、死後まで他人に気を遣ってやらなくてもいいだろう。今朝の遣り取りで、俺はそう考える事にしたのだ。
「えー、入れてくれないの? お茶受け持って来たんだけど」
そう言って掲げられたのは、黒地の小さな紙袋。
その特徴的なデザインは以前からよく知っている。それは『猫屋』の袋だ。そして、その老舗和菓子屋の売りが羊羹だという事もまた、俺は知っていた。
栗か、小豆か、それとも抹茶か。
丁度食べたいと思っていた物を持参されてしまっては仕方がない。それだけ寄越せと言いたいところだが、そうもいかないだろう。茶の一杯くらい出してやらねばならぬ。
そのために松月を呼ぶのは癪だが、羊羹は食べたい。さて、どうするか――思案していると、ナイスタイミングで松月が顔を出した。
「ゆきちゃん、誰か来はったん?」
「あぁ、変態さんがいらっしゃったぞ」
災難の予感と俺の羊羹を手土産に――とは言わず、代わりに「お前の客なのかも知れないが」、と付け足した。
「やぁ、御衣黄の君。今日もお美しいね」
まるで口説くような、やけに軽い挨拶だ。この男は誰に対してもこうなのだろうか。
松月の知人で合っていたらしい。松月は「なんや、梅じいやないの」と男に声をかけた。
「今日はまた、どないしはったん?」
「君がゆきちゃんを見せてくれないから、こっちからお邪魔したんだよ。こんなとこじゃあなんだし、ほらほら、お茶でも淹れてゆっくりしようよ」
梅じいと呼ばれた男は、図々しくも自分から客を構えと促した。やはり 、この男もまた馴れ馴れしい奴らしい。
室内へと場を移し、緑茶を淹れて羊羹を頬張る。
小粒の小豆がアクセントになったそれは、『夜の梅』という名の猫屋の代表的な商品だ。
満足したところで、先程から感じていた疑問を投げかけた。
「で、梅じいとやらもカミサマか? それともまた妙な眷属やら何かか?」
それに、一見して30手前の男性に見えるのだが。爺という様な年では無いだろう。世の中には三十路など年寄りだ、立派な爺だと言う奴もいるだろうが、少なくとも俺はそうは思わない。
まぁ、カミサマだとするならば、そこらの爺さんよりも余程長生きしているのだろうとは思うが。
「あぁ、梅じいはそこの天満さんとこにおる、神様やで」
「良香(よしか)天満宮の好文木(こうぶんぼく)だよ。梅じいやらフミちゃんやら、呼ばれ方は色々だけど。ゆきちゃんにはそうだなぁ、フミさんって呼んで欲しいな。さん付けっていいよね。先輩後輩とか上司と部下とかね、シチュエーションとしては最高」
「よし、梅じいだな」
馬鹿げた妄想を垂れ流す、もう一人のカミサマの呼称を素早く決定する。
「あぁっ、ゆきちゃんひどい!」
変態はそう言って、よよよ、とかなり嘘くさい泣き真似をした。
続
梅じい現る。